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2月, 2023の投稿を表示しています

黄泉・ゲヘナと地獄はどんな所でしょうか?

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不信者が死ぬと霊は神の元に帰りますが、魂は黄泉・ゲヘナに行きます。金持ちとラザロの話を主・イエスさまはなさいましたが、黄泉・ゲヘナは苦しむ所とあり、火炎の中で悶える場所だと分かります。黄泉・ゲヘナと天国とは大きな淵がありこえる事はできないのです。そして黄泉・ゲヘナに行った人は家族や愛する人がその苦しみの所に来ないように願っているのです。しかし、そこに行かない方法はただ聖書に書かれているキリストによる罪の贖いを信じ受け入れる他はないのです。  永遠の地獄は、火と硫黄の燃える池で第二の死と呼ばれる所です。本来は悪魔と悪霊のために備えられたところですが、白いみ座の裁きでいのちの書に名が載ってない人、つまり黄泉にいる人もそこに投げ込まれ昼も夜も苦しみ続けるのです。  私たちは家族や愛する人にこの事実をどうしても知らせなくてはなりません。神様の知恵を頂いて、時にはどんなに馬鹿にされても、迫害されても。それが私たちの責務なのですから。  主なる神さまは「わたしはあなたの前に命と死を置く、あなたはいのちを選びなさい」と語っておられることを、死後の行き先は天国と地獄であり、生きている時にしか決めなれないことをどうしても伝えなければなりません。  神の御子主・イエスさまが命をかけて救いの道を開き、天国への道のなってくださったことを一人でも多くの方に伝えてまいりましよう。  罪赦されされない人の悲惨な運命を割り引かず、伝えるようにしましょう。

神の庭に精一杯咲きましょう

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 栃木市総合運動公園のウォーキングコースには梅林があります。今紅梅と白梅が見頃になってきました。少し離れたところには椿が咲き始めています。  私たちは皆キリストの命を頂き、神の庭に植えられています。与えられたそれぞれの花を咲かせて主を喜ばせることが仕事です。ある花は希望の春に、寂しい秋に、あるいは暑い夏に咲き、ある花は厳しい冬に咲きます。さらにある花は良い香りを振り撒きます。皆与えられた命に役割が組み込まれているのです。  どの花にも優劣は付けられません。無理しないで頑張らなくて良いのです。主が定められた季節に、命に輝けば良いのです。主はそれを喜んでくださるのです。  今日もキリストの命の中でなすべきことをしていきましょう。  神の時が来たら自然に豊かな実も実らせることでしょう。  

神さまの大きさを想い巡らしましょう。

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 宇宙には私たちが知ることができるだけでも無数の星や天体があり、さらに知らない天体が限りなくあるのですが、それらは皆全能主により作り出させれ、かつ秩序を与えられて調和が保たれているのです。  一方でこの地球上で神を無視して平気で神の愛されている人々を殺戮している人物が過去も今もいます。しかし、そのような人がキリストの贖いを信じ受け入れ心から罪を悔いらなら、驚くべきことですが赦してくださるのです。  そんな想像を絶する神さまの御心や定めが記されている聖書を神学や教理によつて限定するなど考えられません。私たちは今一度主が造られた被造物を想い見ましょう。 「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない」(イザヤ書 40章26、28節)。 主を小さく見、小さく考えていたなら悔い改めましょう。  聖書によって示され語られている神の主権と神の定めを、自分の重箱に押し込めないようにしましょう。

聖書を100%信じましょう

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「風は己が好むところに吹く」とありますがこれは皆がご存知のように聖霊なる神さまのことを言っています。  聖書66巻は聖霊なる神さまにより選ばれた人に与えられた霊感により書かれました、真の神の使信、神のメッセージ、神の定めと教えなのです。なので聖霊さまは聖書を全て信じ求める者を通して働かれるのです。  人の時代は族長時代、律法時代を経て、主・キリストが罪の完全な生贄となられ贖いを成し遂げられてから千年王国前までは教会の時代恵みの時代に入っています。初代教会に起こった事は今もリバイバルが起こると起こるのです。聖霊が大いに働かれるからです。  しかし、聖書に書かれている神の務めや聖霊の賜物を否定したりするなら聖霊なる神さまはそのような神の言葉を制限する人は好まれず、その人を通して働かれないのです。日本には聖書信仰に立つと言いながらそのように神の言葉を限定するキリスト信者が多くいるので日本には神の顕著な業が起こらないのです。  今こそ私たちは永遠から永遠まで変わららい神の書である聖書を額面通り信じてなかったら悔い改めていきましょう。  神の働きは神が主権を持っておられ神が用いられやすい国や人を通してなされていく事を覚えましょう。  

やがて住む天国はどんな所でしよう

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  妻と天国について話をしました。ハープやピアノや楽器があるのか、どんな果物があるのか、子羊の婚宴のご馳走はどういうメニューか、全く呪われたものがないのだから、食あたりも下痢もしないのだけど、おいし料理があるのか、寝なくても良い栄光の体が与えられるのにそれぞれに家があっても何をするのか、天国で仕事は何か、流産して天国に送った子供はすぐに分かるか、先に行った家族は何をしているのか、どういう会話をするのだろう、などなどです。  天国の都の大通りは純金で、門は真珠、城壁の土台は宝石でできていて、日や月もなく、死もなく、悲しみも、苦しみも叫びもない、いのちの木に12種の実がなっているのです。罪が犯されない前のエデンの園のように見るからに好ましく食べるのに良いすべての木が生えていることでしょう。様々な鳥や魚や動物がいても、罪がないので、完全な支配がされ、神の子たちに害を加える事はなく、実を結ぶ全ての木や緑の草がその生き物たちの食糧となるのでしよう。私たちの服装は、変貌山で主・イエスさまが一時的に着ておられた光のように白い着物なのでしょう。美味しい物を食べ過ぎて肥満になる事も糖尿病になる事もないのです。女性は最も若々しく美しい状態になり、男性もふさふさな髪に皺もないハンサムな状態になるのです。  私たちは絶え間なく、王の王、主の主、永遠の贖い主を褒め讃え、賛美と礼拝を献げ続け、永遠の天国の世継ぎとされた恵みを感謝し続けるのです。このような希望を持っているのですから、私たちはいよいよ主のために命をかけて従い、御心を成し遂げて参りましょう。  もうすぐ主は栄光の雲に乗って私たちを迎えに来てくださるのですから。  私たちの誰にも知れずに行った全ての働きを正しく報いてくださるのですから。

今朝も四時から栃木市の総合運動公園で歩きながらお祈りしていました。

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  日本がキリストの国になるように、栃木がキリストの町になるように、み言葉に伴うしるしと不思議と奇跡が日常茶番時のように起きますように、数知れない悪霊が追い出され人々が悪魔の束縛や呪縛から解放されますように、神の顕著な癒しが行われますように、真の礼拝者で教会が溢れますように祈りました。  主は私たちの祈りを喜んで受け入れてくださいます。あなたの口を大きく開けよ、私がそれを満たそうと言われます。求めなさい、そうすれば与えられるのです。私たちは神の子で、天の父は神の子達の祈りを全て叶えることのできる偉大なお父様なのです。どんな大きいと思う願いも主にとっては亡きに等しいほどのことなのです。  「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人への手紙 8章32節)、の約束をいつも掲げていましょう。  祈りこそ、私たち神の子の最大の特権であり、神の限りない恵みを引き出す鍵なのです。  悪魔は私たちが賛美してても聖書を読んでてもあまり気にはしませんが、私たちが祈り始めると恐れをなし、妨害を始めるのですから、主の主、王の王の御名により悪魔に立ち向かいつつさらに祈っていきましよう。  

今日「セカンドチャンスの福音」という本が送られてきました。

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   不信者で死んだ人にも救われるチャンスがある、その根拠として「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです」(ローマ人への手紙 14章9節)を掲げています。しかしその聖句は前の節「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ人への手紙 14章7~8節)とありますから、キリスト信者のうち死んだ人のことを言っているのであって不信者のことを言っているのではないのです。不信者にはこの世でしか救われるチャンスはなく、セカンドチャンスはないのです。  不信者は死後白い御座の裁きまでの間黄泉にいますが、この著者は「黄泉は最後の審判までの中間的•一時的な場所でこの地上の生涯でキリストに出会えなかった魂のための場所です。黄泉は未信者にかつての地上生涯を振り返り、立ち直りの機会・セカンドチャンスを与えるために存在しています。それは、一人も滅びないことを望む神の愛の現れなのです」と述べていますが、これは間違った教えです。キリストは金持ちとラザロの話の中で金持ちが苦しみのハデスの中から自分の家族がこの苦しみのところに来ないように伝えるよう願っていますが、主は聖書の教えを聞くほかはないと言われました。つまり人はこの世に生きているときにしか救われる道はないという事なのです。しかしローマ書10章9、10節には口でイエスを主と告白し心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら救われる。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われると名言されています。この世に生きている時にです。これほど寛大な救いを得る道があるのに神の定めを反故にしているのです。この著者は黙示録22章18、19節に描かれているように神の言葉に付け加え、あるいは神の言葉から取り除いているのです。  亡くなられたキリストが黄泉のパラダイスに行かれ、旧約の聖徒たちに大祭司が死んだと述べ伝えられ、彼らを引き連れて天のパラダイスに行かれました。それで、今は黄泉のパラダイスには誰もおらず、今は地獄に行くべき不信者の魂が留め置かれている苦しみの場所なのです。それを自分の私的

キリスト信者が地獄に行くことは決してありません、例え自殺しても同じです。

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   ある牧師はキリストを信じ告白し洗礼を受けても、罪を犯し続け悔い改めないなら地獄に行くと教えています。これはこれで真理ではありません。誤った教えです。聖書のどこにも書かれていません。  ヨハネ5章24節には「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネの福音書 5章24節)、 と主が約束されています。まことにまことにと言われたのはとても重要な事を語られるときに使われた言い方です。福音を聞いて主・イエスを信じた者は永遠の命を得たのであって裁かれて地獄に行く事はなく、すでに死の支配ではなくキリストの命の支配の中に移っていると言われたのです。そしてここには罪を犯したら悔い改めなければといった条件はありません。  神は自我と浮き沈みの激しい感情を司る魂にキリストにある永遠の命と救いを保つように定められたのではなく、内住されるキリストの霊が住まわれる霊の中にキリストご自身が持っておられるとされたのです。 「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(ヨハネの手紙 第一 5章11~13節)、 と記されています。  キリストは十字架の上で過去の罪、現在犯しているかもしれない罪、そして将来犯すであろう罪、人に対して犯した罪、自分に対して犯した罪(自殺は自分に対する罪です)神に対して犯した罪、言葉で犯した罪、思いで犯した罪、行いで犯した罪、それら全てを背負って罪の生贄となられて永遠に完全な贖いを成し遂げられたのです。ではキリスト信者が罪を悔い改めず、罪を犯し続け、信仰も捨てた生活、悪魔に魂を売り渡したような場合はどうなのでしょうか。それでもそのキリストを一度信じた人は地獄にはいかず天国に行くのです。その理由は、人の魂と霊は違うものであり、その人が罪を犯し続け、魂を悪魔に売り渡してもそれは魂の問題で、罪の払う報酬は死であると書かれていますから、その

主に委ねる人生の幸い

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  私たちはどこまで主に委ねているでしょうか?主への奉仕だけでなく、自らの性格が招く失態や行き詰まり、パートナーの否定的な言葉による八方塞がりの状況をも主は糸をほぐすように、迷路を通って抜け出すようにできるお方であると信頼しているでしょうか。  そうできないなら神の力を見下げているのです。あるいは全能者をみくびっているのかもしれません。 「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇 139篇16節)、 と記されていることを心に留めてください。  年をとっても、資金が全くなくても、仲間がいなくても、側近の協力者にクソ味噌に言われても、全てがダメな方向に向かっていても、私たちを通してご自身の計画を持って押し進め完成することのできるキリストに信頼していましょう。することがなければ、分からなければ休んでいましょう。主が私たちのために働いてくださつているのですから。  主は主に信頼する志の堅固な人を守られ平安をくださるお方です。  聖書は試みの中でも主の平安の中で過ごした記事で溢れているのです。

一流の神の僕になりましょう

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   一流について調べると、「ある分野において最上クラスの地位にいる人のことを指すが、結果だけでなく「生き方」や「物事に対する姿勢そのもの」が高く評価されることも多い。一流の人は「私は一流だ」とは言わない。一流かどうかは他人が評価するものだからだ。自分のやってる事に夢中になるうちに結果的に一流と評価されていたと言うことだ」とありました。  してみると一流の主の僕とは、名は知られなくても、主から与えられた務めを酷評されても極めることなのです。パウロは困難の中で異邦人への使徒として極めました。ペテロも三度も主を否定しましたが最後は逆さ十字架で殉教しました。モーセは殺人者としてエジプト王から命を狙われた人ですが顔と顔を合わせて主と話せた人でした。この世で人の評価を得られなくても主が評価してくださる人もいます。その人はこの世では隠されているのです。  妻の恩師は癒しの器でしたが、あらぬ噂を亡くなってからも立てられています。私の霊の父は世界中で主の僕達を育成し支援してきましたが、日本では異端のように言う人もいます。ミルクとピーナッツバターが好きな普通の人に見られましたが、食事中に聖書の質問をしようものなら食べるのを急にやめて3時間でも4時間でも大切な教えや証を話し続ける人でした。  この世での評価は案外神の前には無に等しいものかもしれないので、むしろ主に「良くやった忠実な僕よ」と言われる人になりましょう。  与えられた賜物と時間と体力と富を、五つつのパンとニ匹の魚の弁当を主に差し上げた少年のように献げきるなら、主は喜んで神の国のために最高に用いてくださるのです。

キリストの処女降誕の科学的証明

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  1982年1月、考古学者であり探検家でもあるロン・ワイアットにより衝撃的に発見された血液がある。  その二千年前の乾いた血を塩化溶液に三日間浸して水和しなおしてから電子顕微鏡でDNA鑑定すると、この血は間違いなく人間のものであり、男性決定因子であるXY染色体を含む男性の血であった。ところが驚くべき事に通常ならば父親から23個、母親から23個、合計46個の染色体を持って産まれるはずの人間の血液が、この血に限って24個しか染色体を持たない男性の血であった。母親からの染色体しか持たない、科学用語でいう「半数体」の血液であり、それは部分的処女生殖によって生まれた人間の血液であった。部分的処女生殖とは、医学界で理論的には一般に認められている現象であり、母胎となる処女の卵巣付近に存在するY遺伝子が卵子と結合して、処女がXY遺伝子を含む胎児を出産できるという考え方である。この血液の発見はオーストラリアの探検家、考古学者であるジョナサン・グレイも確認した。この血液の持ち主こそ聖書に書かれている処女マリヤより生まれられた奇跡の人イエス・キリストである。 キリストが十字架で処刑されたどくろと呼ばれるゴルゴタの丘に3本の十字架を立てた穴がある。その真ん中には左右の十字架穴より約10cm高い岩床にある十字架穴があった。これこそキリストの十字架の穴である。紀元七十年以降に十字架刑の執行がローマから全面廃止され、その刑場跡には暫く教会が建っていた跡があった。そのキリストの十字架穴から大きな地震(マタイ27章51節)の際に生じた下の方向へ大きな自然の炸裂があった。十字架穴の下6mに洞窟がありそこを調査すると獣の皮で覆われた金の机と契約の箱が隠されていた。契約の箱は古代に物を保存する為によく使われた長方型の薄い石棺にすべてすっぽり収められており、その石棺の平らな上ふたは二つに割れており、割れたうちの小さい方が横にずれてそこに開かれた隙間ができており、小洞窟内の天上部のひび割れた裂け目にも真下に位置するその割れた石棺の開かれたふたの上にも中にも黒く固まった例の血がついていた。実に契約の箱は十字架の立てられたその現場のちょうど真下6メートルに位置していたのである。例の地震は十字架のちょうど真下の小洞窟に隠されていた契約の箱の空間にまで真っ直ぐさく裂が走り、ほふられた神の小羊イエスご自身が流さ

心の足腰を強めましよう

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   筋力の衰えは足腰からと言われます。1日間の床上安静で失われる筋肉量を補うために、最大2週間の運動が必要です。  預言者イザヤは弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよと語っています。パウロは真理の帯を締めなさい(エペソ人への手紙 6章14節)と勧めています。真理とは神の言葉・聖書の教えであり教理です。帯は英訳ではコルセットのようなものと訳しています。  私も腰を痛めたときはコルセットを装着していました。思い物を持っても補強されたようで楽でした。しかし歩かず運動しないと、確かに弱っていくのを感じます。私たちの命と力の源は主・キリストにあります。日々神の言葉から真理を得ていくことが、魂の腰を支えるのです。神の言葉を覚え暗唱して蓄えることが足を強くするのです。  心の考えやはかりごとを判別する神の言葉を日々頂き、強い魂の足腰を保ってまいりましょう。  一日でも命の主から御言葉を頂かないと水が枯れた植物のように足腰が弱ることを覚えましょう 。

もっと感謝の祈りを献げましよう

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   朝は、良い睡眠をくださったことに感謝しましょう。  寝ている時も火事や災害や犯罪から守られたことを感謝しましょう。  夜は、今日も一日守られ、主の助けがあったことを感謝しましょう。  食事の時は、日毎の糧が与えられ、健康が与えられていることを感謝しましょう。  苦しい時、試練の時は、全てを知り、逃れの道も備えてくださることを感謝しましょう。  罪を思い出した時は、罪の奴隷から、永遠の滅びから救い出されたことを感謝しましょう。  命の危険を感じた時は、永遠の命と永遠の救いを賜ったことを感謝しましょう。  人の愛を感じない時は、御子キリストを賜った程に愛されていることを感謝しましょう。  この世の富が足りないと感じる時は、御子と共に永遠のみ国の相続人とされていることを感謝しましょう。  敗北感を感じるときは、キリストと共に信仰の勝利者として招かれていることを感謝しましょう。  自らの欠けを感じるときは、神の無二の器として整えられていることを感謝しましょう。  週末を感じるときは、大患難の前に主が迎えに来てくださることを感謝しましょう。  人の見えないところで良きことをしたときは、主のためにした小さな事までも報いがあることを感謝しましょう。  どんな時も、恵み深く憐れみに満ちた、天の父に感謝しましょう。

キリストからのミッションを成し遂げましょう

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 ミッション・インポッシブルの映画を見ました。命懸けで与えられた使命を果たすもので幾多の危険にも怯む事なく挑んでいき、犠牲を惜しまず突き進んでいく内容です。  私たちも万軍の主の兵卒です。主の主、王の王から受けた使命を果たすために戦い続けていくのです。自我を征服し、不信仰を捨て、人々から悪霊を追い出し、病を癒やし、悪魔の策略を神の言葉と、主・キリストの御名の権威を用いて打ち破るのです。  敵は目の欲、肉の欲、暮らし向きの向上を持って誘惑し、またお金や名誉や力や富をちらつかせて士気を挫こうとしてきます。それが駄目ならあらゆる武器を使って攻撃してきます。親しい者からの中傷、信頼していた人からの裏切り、家族からも反対され妨害されることもあるでしょう。ヨブのように家族を財産を奪われるかもしれません。  しかし、主のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けると約束されています(マルコの福音書 10章29~30節)。またキリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ人への手紙 3章14節)。   私たちは信仰の馳場を走り抜き、大きいか小さいかに関わらず主から召された使命をひたすら果たしてまいりましょう。  主は忠実であったか従順であったか誠実であったかを見ておられるので、人と比べないようにしましょう 。

あなたは主・キリストをどう告白しますか

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  ペテロは主から「あなたは私を誰だと言うか」と問われた時「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えました。ダビデは主こそ私の岩、砦、悩める時のいと近き助けと告白しました。  ではあなたは主から同じ質問をされたら何と答えるでしょうか?主は他の人の告白でなくあなた自身の言葉による告白を求められる時がくるでしよう。それこそ本当のあなた自身の主への信仰の告白なのです。  私は最近この告白をする事に決めました。「主よ、あなたは私たちのうちに働くあなたのみ力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできるお方です」(エペソ人への手紙 3章20節)と。皆が違って良いのです。主は一人一人にご自身の素晴らしさを示し、味わわせてくださっているのですから。  私たちの生活、体験の中で教えられた主の素晴らしさを主に告白して賛美と感謝を献げましょう。  主は更に優った恵と祈りの答えを賜り主の偉大さを現してくださるのですから。

神の王国と悪魔の王国

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  国はその主権が及ぶ場所を言います。日本国内だけでなく外国の日本大使館では日本の法治がなされる場所です。  神の国は神が支配されている場所です。全宇宙、キリスト信者の霊と、神に明け渡された魂の部分と献げられた身体、献げられた建物や土地などです。これに対して悪魔の王国はキリスト信者でない全ての人の魂と身体、この世の全ての富やシステム、更にキリスト信者の魂で神に明け渡していない部分も含まれます。教役者であっても神に明け渡していない魂、心の領域は悪魔に支配されていることになるのです。  悪魔は神に逆らい天使の1/3を引き連れて反逆し地に落とされました。その数は一億と考えられます。神に仕える天使は二億です。この地はやがてキリストが千年の間治めるようになり、その後悪魔と悪霊とキリストを信じなかったものは永遠の火の池に投げ込まれます。そのためこの恵みの時代に悪魔と悪霊は委ねられているこの世の全ての富やシステムを使って人を騙し、殺し、神の国の拡大を妨害し、キリスト信者を信仰から遠のけ、祈らせないようにし、神の僕を堕落させようとありとあらゆる方法を通して画策しているのです。例えばダビデは悪魔に唆されて民の数を数える罪を犯させたのです。  しかし、十字架の上でキリストは悪魔の頭を打ち砕いてくださいました。主・キリストは自我に打ち勝ち、罪に打ち勝ち、悪魔に打ち勝ち、死に打ち勝たれて、勝利から勝利へと従う私たちを導いてくださるお方です。私たちはその御名の権威と力と、神の言葉と祈りと信仰によって神が与えられる領地を勝ち取っていくのです。私たちは共に働かれる主にあって、人を滅びから救い出し、癒やし、呪いから解放し、悪霊を追い出し、死人をも甦えらせ、悪魔の王国を震えあがらせる存在なのです。  先ず私たち自身の心・魂を完全に主に明け渡し神が自由に用いることのできる存在になりましょう。  私たちが自分の願いや意思に死んで神の意思に従う時、神は家族や友人達を神に導き、神の国の拡大のために私たちを用いてくださるのです。

教会が通過すべき7つのテスト

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     黙示録1:4ー3:22には7つの教会についてのメッセージがありますが、そのテーマは勝利を得る者であり、勝利者です。別の表現はキリストの花嫁です。この七つのテストはキリストの生涯にもありました。神の器が造り上げられる七つの工程にもあるものです。勝利者になるための7つのテストでもあります。 1:エペソの教会へのメッセージは服従のテストを示しています。神の子供たちの全てを知っておられるお方が、初めの愛に戻りなさいというものです。それをパスする為にはひたすら信仰者が神のみ言葉と神の語りかけに従うことです。徹底した悔い改めと徹底した従順が必要です。神は心を見られるので表面的な服従では満足されないのです。 2:スミルナの教会へのメッセージはこの世からの分離のテストを示しています。勝利者だけがこのテストをパスするのです。勝利者たちは酷い苦しみの時も純粋な信仰の証を守り、神を恐れない偽クリスチャン達の間で生活するも品格を落とす事は無かったのです。 3:ペルガモの教会へのメッセージを通して明け渡しの従順のテストが示されます。このテストにパスした者が勝利者になるのです。ヤコブ書4章7節は神に服従するだけが悪魔を追いやる事ができると述べています。これはサタンが住む所で生活している私たちには非常に重要な原則です。殉教は全ての事について神に明け渡す事の別の表現です。 4:ティアテラの教会へのメッセージは整い・準備のテストを教えています。この試みをパスしたものが勝利者と認められるのです。パウロは教会を整えて建て上げました。イゼベルが出現するのは聖徒たちが如何に姦淫から自分たちを守る事が整えているかを試みる為です。整えの期間が終わったら、神はご自身の真実の故に私達が建て上げる為に試みられる事を許されるのです。 5:サルデスの教会へのメッセージを通し所有を明け渡すテストが示されています。この試みも勝利者への道です。私達はローマの教会に教会の交わりから名前を削除される人々が出るような悪い事が起こっている傾向を見いだします。しかし、それはその除名される人々が内なる人が建て上げられて彼らの主が命の書に書かれる報いを得るためです。そうでなければこの地上で所有を主に明け渡したり主にある交わりは人々を欺くことになります。今日多くのクリスチャンは、神の神聖な秩序や真理よりも、多くの友人達の名前に囲まれ

悪魔は聞いている

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 私たちの祈りは主なる神さまが聞かれて、神さまの力が現されます。しかし同時に、悪魔・悪霊も言葉による祈りや口に出された神からのビジョンなどを聞いているのです。悪魔・悪霊も見えない霊的な存在で私たちの発する言葉を聞いているのです。聖書を読んだり賛美してる分にはあまり邪魔しませんが私たちが祈り始めると悪魔・悪霊は攻撃を始めるのです。  悪魔・悪霊は神さまのように偏在する事はできないのですが、悪魔の手下共の悪霊は様々な地域を軍隊的に受け持って、神さまの働きを邪魔して人々が神の元に来ないようにし、キリスト信者や神の僕を騙し、一致を壊し、失望させ、ついには祈らないようにさせているのです。  それに対抗するには、より重要な事柄は一切口に出さず、祈る時も知性の祈りでなく異言の祈りをするなら悪魔には知られないのです。これはとても重要な事です。加えて神に従い悪魔に立ち向かう事です。エリコの周りを毎日回った時も民に一切言葉を発してはいけないと言われました。紅海を渡る時も黙しているよう命じられました。主・イエスさまも重要な事は、弟子達にも伝えられませんでした。ひたすら天の父なる神さまとの交わりの中で悪魔に知られず確認されていかれたのです。  私たちは大切な事は口に出さず、異言で祈り、悪魔・悪霊に知られて無用な妨害をされないようにしましょう。  不用意に不信仰な言葉や、失望させる言葉や、神の働きを制限する言葉を使わないようにしましょう。

昨年分の会計処理と決算作業をしています

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 複式簿記は実にシンプルでありながら、確実に会計事実の記録、計算、報告を行うために必要なものです。委ねられたものについての責任を明らかにしていく有用なものです。しかし、複式簿記で会計処理をするに当たっては、幾つかの前提を頭に入れておかなければなりません。会計学的にいうと会計の公準と呼ばれているものです。  先ず第一に会計主体を決めておく事です。教会の会計と牧師の家計をきちんと分けるという前提です。わかりやすく言うと丼勘定にしないと言う事です。二つ目は教会の働きが継続してなされていくと言う前提です。高額な車やピアノなどを購入した場合にはそれぞれの耐用年数にその購入金額を分けて経費にしていくための考え方です。同じ会計事実は同じ会計処理を継続していく事で相対的な真実性を求めていくものです。三つめは貨幣で評価されるものを対象とする事です。絵画が献品されたが無名の人が描いたものとしたら、いくら信仰的な絵画で飾ることにしても、お金で評価できないので、評価額は備忘価格の一円か0円にすると言うものです。  そう考えると私たちの信仰生活、教会の宣教の働きの見える評価も幾つかの前提があると考えます。先ず、他の人の働き、他教会の働きではなく純粋に自らの働きによるものを評価すべきと思います。また神さまから与えられた年月に分けて評価すべきなのでしょう。さらにまだ見えてない祈りなどは含まれないのでしょう。このように会計も働きの評価も限界があるのです。  全能の神さまだけが、全ての神の子、神の僕について人の目に見えない部分まで完全で正しい評価をしてくださるのです。どれだけのタラントが与えられていてそれをどのように用いたかは人は正確には計れません。私たちはひたすら忠実に、正直に、信仰を持って、主から命じられた事を行うのです。その結果は主が正しく評価し、喜んでくださるのです。  主から確かに命じられ指示された事を、いつ、どんな方法で、どんな仲間とあるいは神の助けの中で忠実に、熱心に行って、評価は神さまに委ねていきましょう。  人の評価はあくまでも相対的なものである事を覚え、あまり気にせず、その評価に左右されないようにしましょう。

人を最高に感動させること

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 久しぶりに音楽を聴いていました。8歳の少女が歌ってる「オーミオバツビーノ」を聴いて泣いたり、ザンフィルのパンフルートで「アンデスの孤独な羊飼いの歌」で鳥肌が立ったり、ニューオリンズジャズのアレキサンダーラグタイムバンドをジョージルイスと彼と訪日したバンドメンバーの最高に盛り上がった演奏を聴いて黒人達の魂の叫びを感じたりしていました。  人は感動すると、考え方や生き方が変わったりします。演奏や歌声や出来事がその元になるものです。人類の歴史の中で最も大きな感動を人々に与え、今や世界人口の3人に1人の人生を変えた出来事がありました。それこそ神ご自身が神の姿を捨て、人となられ、人々の罪を贖うために命を捨てられて呪われたものとなられて死んでくださり、3日目に死から甦り、今も生きて私たちを救ってくださる事です。  このキリスト・イエスの生誕と生涯と十字架の死と復活と昇天こそ、天使達も固唾を飲んで見守った人類の歴史を動かす事だったのです。悪魔は歯軋りし、じたんだ踏んで悔しがつたのです。今の瞬間も世界のどこかで誰かがキリストを信じ罪の刑罰から贖われ神の子とされているのです。そしてその主の愛に押し出されて殉教まで覚悟する宣教者が出ているのです。  主がしてくださった事を一つ一つ深く魂に刻み付けて忘れないようにしましょう。  私たちの主への全ての奉仕の動機の源をいつも見つめなおしておきましょう。

無神論者は自分や富を神とする

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「神を知らぬ者は心に言う『神などいない』と」(詩篇53篇一節)。  日本人は、正月になるとあちこちの神社で詣をし、葬式では焼香を炊いて死者を崇拝するのですが、10人に7人は無神論者とされています。  無神論者の多くは自分の力や富を拠り所としているのです。 「見よ、この男は神を力と頼まず自分の莫大な富に依頼み、自分を滅ぼすものを力と頼んでいる」(詩篇52篇9節)、 と記されています。そう言う人ほど人生の危機に直面すると「神さま助けて」と叫ぶのです。  しかし、私たちは偉大な供給者、全能の神、素晴らしい天の父に信頼し、罪は犯されませんでしたが全ての点で試みを受けられ大祭司として取りなし救い出す力ある主・キリストが共にいてくださるのです。試練の時には脱出の道も備えてくださるのです。失望に終わることはないのです。恥を見る事もありません。 「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」 (コリント人への手紙 第一 2章9節)。  主は私たちの主により頼む生き方を見て私たちの必要なものを全て備えてくださる「あどない・いるえ」の神さまなのです。  だからどんなときにも、神に信頼しましょう。私たちの心を神の御前に注ぎ出しましょう。神こそ私たちの避け所なのですから。

記憶や思い出の掃除をしましょう

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 かつてミッションハウスとして礼拝をしていたり、スタッフの住まいとし、のちに木工のアトリエとしてた建物から、頑丈で大きな整理棚を音楽室のものを整理する物置たなにすべく、載せてあったものを全て床に置きました。  時間かけて作り高額で売れた食堂テーブルや、さまざまな工作物を作ったりして、まだまだ使える道具、工具が多くあるのですが、酷い埃や木屑が積もって何が何だかも分からない状態です。きちんとほこりや木屑を吹き払い、綺麗にすれば新品のようなものもあります。無くしたと思っていたドリルのチャックも出て来ました。  私たちの心も埃に塗れた思い出や、燻んでしまってる記憶が多くあるのです。それに触れようとすると、埃や木屑が舞い上がり折角着てる素敵な服を汚してしまうのです。そんな時聖霊さまにその記憶に入って頂き、掃除をしていただかなくてはならないのです。主が「こればもう要らないなら捨てましょう」と言われたら同意してお任せしましょう。拒否する事もできますが、人間的に対処すると辛く悲しいことになるでしょう。新鮮な命の風を記憶の部屋に吹き入れて頂きましょう。飾ってある絵も信仰と希望に満ちたものに取り替えて頂きましょう。  記憶や思い出を主にあって整理しておかないと、悪魔の攻撃材料にされることがあります。  主は心の癒し主であり、心の傷も思い出も記憶も健全であることを願っておられるのです。