キリスト信者が地獄に行くことは決してありません、例え自殺しても同じです。

  ある牧師はキリストを信じ告白し洗礼を受けても、罪を犯し続け悔い改めないなら地獄に行くと教えています。これはこれで真理ではありません。誤った教えです。聖書のどこにも書かれていません。

 ヨハネ5章24節には「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネの福音書 5章24節)、
と主が約束されています。まことにまことにと言われたのはとても重要な事を語られるときに使われた言い方です。福音を聞いて主・イエスを信じた者は永遠の命を得たのであって裁かれて地獄に行く事はなく、すでに死の支配ではなくキリストの命の支配の中に移っていると言われたのです。そしてここには罪を犯したら悔い改めなければといった条件はありません。
 神は自我と浮き沈みの激しい感情を司る魂にキリストにある永遠の命と救いを保つように定められたのではなく、内住されるキリストの霊が住まわれる霊の中にキリストご自身が持っておられるとされたのです。
「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(ヨハネの手紙 第一 5章11~13節)、
と記されています。
 キリストは十字架の上で過去の罪、現在犯しているかもしれない罪、そして将来犯すであろう罪、人に対して犯した罪、自分に対して犯した罪(自殺は自分に対する罪です)神に対して犯した罪、言葉で犯した罪、思いで犯した罪、行いで犯した罪、それら全てを背負って罪の生贄となられて永遠に完全な贖いを成し遂げられたのです。ではキリスト信者が罪を悔い改めず、罪を犯し続け、信仰も捨てた生活、悪魔に魂を売り渡したような場合はどうなのでしょうか。それでもそのキリストを一度信じた人は地獄にはいかず天国に行くのです。その理由は、人の魂と霊は違うものであり、その人が罪を犯し続け、魂を悪魔に売り渡してもそれは魂の問題で、罪の払う報酬は死であると書かれていますから、その世での裁きを受け死にますが彼の霊にはキリストが永遠の救いと永遠の命を持っておられるので天国に行くのです。
 ただし天国での報いは何もないかも知れません。
「だれも、すでに

据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」(コリント人への手紙 第一 3章11~15節)、
と書かれています。人の与えられた土台とはイエス・キリストであり、キリストが霊において持っておられる救いと永遠の命です。この土台の上に全てのキリスト者は、金銀宝石、木草わらで人生を築くのですが、罪を犯し続けるとか悪魔に魂を売り渡すということは木や草や藁で家を作ったようなものなのです。そしてやがて人生の総決算で火で試されるのですが、自分は火から逃れ出るように救われるとありますから、何も残らない状態すなわち天国においては何も得ないが土台は残っているので永遠の救いや永遠の命はキリストにあって持っているのでとにかく天国には行けるということなのです。
 神は完全な贖いを主・キリストにあって成し遂げてくださったので、その血潮の下に自分を置くことで永遠に義と認められた事を感謝しましょう。
 霊と魂の区別、救いと報いの区別を聖書を通して明確にしておきましょう。

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