一流の神の僕になりましょう

  一流について調べると、「ある分野において最上クラスの地位にいる人のことを指すが、結果だけでなく「生き方」や「物事に対する姿勢そのもの」が高く評価されることも多い。一流の人は「私は一流だ」とは言わない。一流かどうかは他人が評価するものだからだ。自分のやってる事に夢中になるうちに結果的に一流と評価されていたと言うことだ」とありました。

 してみると一流の主の僕とは、名は知られなくても、主から与えられた務めを酷評されても極めることなのです。パウロは困難の中で異邦人への使徒として極めました。ペテロも三度も主を否定しましたが最後は逆さ十字架で殉教しました。モーセは殺人者としてエジプト王から命を狙われた人ですが顔と顔を合わせて主と話せた人でした。この世で人の評価を得られなくても主が評価してくださる人もいます。その人はこの世では隠されているのです。
 妻の恩師は癒しの器でしたが、あらぬ噂を亡くなってからも立てられています。私の霊の父は世界中で主の僕達を育成し支援してきましたが、日本では異端のように言う人もいます。ミルクとピーナッツバターが好きな普通の人に見られましたが、食事中に聖書の質問をしようものなら食べるのを急にやめて3時間でも4時間でも大切な教えや証を話し続ける人でした。
 この世での評価は案外神の前には無に等しいものかもしれないので、むしろ主に「良くやった忠実な僕よ」と言われる人になりましょう。
 与えられた賜物と時間と体力と富を、五つつのパンとニ匹の魚の弁当を主に差し上げた少年のように献げきるなら、主は喜んで神の国のために最高に用いてくださるのです。

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