投稿

1月, 2023の投稿を表示しています

使徒たちの教え

イメージ
「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒の働き 2章42節)。  初代教会に学ぼうと殆どの教役者がその特徴や秘訣を聖書に求め詳しく調べています。交わり、聖餐式、祈り、賛美、喜び、分け与え、愛餐会、不思議としるしなどが確認されていきました。ただ使徒たちの教えについては明らかにされてきませんでした。  使徒たちの教えは主・キリストが使徒たちに教えられた教えです。ミルクの真理から大人の為の義の真理つまり、神の定め、安息、霊・魂・身体の区分、カルバリの完全な契約、時代区分、永遠の救い、勝利と成長、についての根本教理が、教会のために用意されてあったのです。更に主が天に帰られ聖霊降臨の後パウロなどによって更に充実されていきました。それは誤った教えが教会に入ってきたからです(第一テモテ1:3)。今日の教会にも誤った教えが入って来て、キリスト信者に不安や混乱に陥れています。私たちは健全な教えを学んでおかなくてはならないのです。  私たちが巡にいくと本当に救われているのか、天国に間違いなく行けるのか不安があるとか聞かされます。また、求道者からは預言されたが占いみたいだったなどと言う話を聞きます。永遠の救いや教会統治に関する御霊の賜物を含めての健全な根本教理がきちんと広く教えられてないからです。救いがどこで誰が保っているのかが正しく教えられてなかったり、大教会の牧師が使徒と名乗りカバリングを作り預言者を任命したりして、混乱は拡大しています。  健全な教理は健全な教会を生み出し、健全な信徒たちに育てる事を覚えていましょう。  間違った教理を教えられるとそれを正しい教理に変えるのは成長すればするほどなかなか難しいものなのです。

主の御心を行なおうとすると何が起きるのか

イメージ
   自宅兼チャペルの我が家を整えています。いよいよ、音楽室を整理してミニコンサートができるように、まず物置を整理していました。使ってない不要な什器を廃棄したりしていました。妻のステンドグラスのアトリエでもあったので、妻が整理せてたのですが、些細な事で妻と口論になり、結果息子も巻き込んで険悪な状況になってしまいました。  午前は一緒にデボーションをして祈って一致があったのでこれは必ず敵の攻撃を受けていると分かりました。神の働きが前進する時悪魔はそれを何とかしてやめさせたいのです。そして夫婦の不一致、親子の対立をもたらし、神の働きが鈍化するように画策するのです。その矛先は先ず核になる人の魂に怒りや落胆をもたらし、気落ちさせようとします。更にその夫婦仲や親子関係を仲違いさせたりします。  そんな時は怒らず、不信仰にならず、心で祈り続け、神の約束に立ち悪魔に立ち向かっていかなければなりません。  私たちが見えない世界で神に従って信仰に立ち続け悪魔に立ち向かっていくなら、やがて見える世界でも、主にあって勝利を見ていくのです。

カランコエの蕾

イメージ
 昨年の夏植木鉢の土の中から小さな小さな芽が出ました。どんどん大きくなってクリスマスの頃蕾が付き始めました。  その後蕾が増えたいきましたが一向に咲く気配がありませんでした。先日よく見ると幾つかの蕾が開いて咲き始めたようです。  神さまが与えられた命の芽はどんなに小さかろうと、神さまによって育てられやがて花が咲くのです。  私たちも神の子のDNAを頂いているのですから、神の素晴らしい栄光の花を誰もがやがて咲かせるのです。

あなたの献身はいつのものですか

イメージ
モーセの幕屋に於いて、聖所の香の壇で香は、朝に夕に焚いて献げられていました。香の壇は聖所にありました。聖所は人の心・魂を示しています。また幕屋の入り口近くには青銅の祭壇があり、そこで毎日、朝に夕に傷のない雄羊が焼き尽くす献げ物として日毎に献げられていました。青銅の祭壇は人の身体を示しています。  現代では屠殺は自分でできないし、羊を飼ってもいないので、献金と言う形でキリストに贖われた者たちは礼拝の時に献身の意味を込めて献げるのです。なので献金は賽銭箱に投げ入れるような意味合いを持つものでは決して無いのです。自分自身を献げる代わりに主に献げる事を表すものなのです。だから、盗んだものとか、ごまかしたものを献げることは傷のある羊を献げることになり主に受け入れられないのです。  また主に身を献げた者も、昨日の献身、過去の献身ではなく今日の献身が求められるのです。昨日の献身、過去の献身は今日のためには不十分なのです。毎朝私たち自身を、身体と心・魂を主に明け渡し、聖い生きた供物として主に献げていかなければなりません。そうすれば主は喜んで私たちを通して働かれ栄光を現してくださるのです。  主に献げるものを蔑ろにしないで、心から自分を献げる意味を持って行いましょう。  毎日、主に身も心も明け渡し、自分の願いや意思に死んで主の願いと意思に従つてまいりましょう。

主に立てられた者に求められる最も大切な事がら

イメージ
サウルはイスラエルの初代の王として、油注がれました。しかし彼は二度も主の定めに背き、主を退けたので主はサウルから王位から退けられました。彼の最大の欠点は自分を立てられた主に聞き、伺う事をしなかった事です。返って霊媒に伺いを立ててしまいました。  今の時代も主に立てられた神の器、神の僕が多くいます。皆熱心に聖書を学び聖書に精通している事でしょう。ところが、行っている事は立てられた主に聞いて、伺い、主の指示された事を行っているか疑問を感じることが少なからず見受けるのです。極端に言えば主に言われた事ではなく人が思いついた事をしているだけなのです。それが成功しているから良いと言えるものではないのです。  サウルの生き方は主に逆らったものとして、除かれその王位はダビデに回されたのです。主の御声に聞き従うこと以上に重要なことはないのです。立てられた主人である主に聞き、耳を傾けることは、どんなに頑張って得て献げたものよりも大切なのです。口も耳も作られた神さまは私たちが伺えば聞こえるように語ってくださることができるのです。主は経験豊富な人や聡明な人、知識に富む人を求めてはおられないのです。単純でも主の御声に従う人を求めておられるのです。主が言われた事を無視することは占いの罪、主の仰せに従わないことは偶像礼拝の罪だと語っておられます。  私たちは時節ごとに自分がしている事が主が指示された事なのか、主の御心の真ん中にいるのかを確認しなければなりません。  もしそうでないと分かったらどこから逸れてしまったのか主に聞き、正しい立ち位置に修正していく必要があります。そうするなら主は祝福してくださるのです。

人が造られた目的

イメージ
  こういう賛美があります。  ♪♪ あなたをたたえ あなたの御名かかげ どんな時も 感謝するため あなたを愛し そのみもとで拝し 従うため 造られた  あなたをたたえ あなたの御名かかげ どんな時も 感謝するため あなたを愛し そのみもとで拝し 従うため 造られた♪♪  人はよく働き、美味しいものを食べて、良い家庭を作るのが人生の目的と考える人もいるでしょうが、それがより本質的な存在目的でしようか。  60兆個もの細胞でくすしく造られた私たちは、主から賜った恵と慈しみにどんな時も感謝するために私たちは存在しているのです。感謝すべき事について152回も聖書は記しています。  天の父なる神さまはご自身の御子を賜るほど私たちを愛してくださいました。なので私たちもその主を愛に応えて心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛していくために生かされているのです。  主・イエスさまは私たちが霊とまことをもって神さまを礼拝しなければならないと言われました。それは尊いみ子の血潮によって贖われた私たちの永遠に続く務めです。  私たちは主の牧場の羊です。大牧者である主・キリストに従って行くなら豊かな緑の牧場に導かれて行くのです。また主の僕であるなら主人であるキリストに従う事こそ大切な事なのです。  人は弱く罪を犯しやすく天使のような完全なものではないですが、主の十字架の愛に応える動機を主は喜ばれ求められるのです。  礼拝の中で感謝し、賛美し、崇め、従う事を告白するだけでなく毎日行っていきましょう。

雨が降るというのは素晴らしい神さまの恵です

イメージ
   日本は四季があり恵みの雨が降る 国ですが、世界的にはヨーロッパもアフリカも西アジア、中国も干ばつで多くの人が水を求め、争いまで起こっています。  エリヤは主の言葉に従って雨の降るのを止めたが、主の言葉によって再び雨が降るように祈りそして大雨が降りました。「彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った」(ヨブ記 29章23節)。  主は大雨を、先の雨と後の雨を季節に従って与えてくださるのだから、私たちは主を待ち望もうとエレミヤは語りました。ホセアは大雨のように私たちのところに来て、後の雨のように地を潤される主を体験的に知ろうと記しました。ヨエルは主は大雨を降らせ初めの雨と後の雨を降らせてくださるのだから神の民は喜び楽しめと言い、ゼカリヤは後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さると主から言葉を預かったのです。  してみると主は作物のためにも地を潤すためにも、人が生きるためにも雨が必要な事を知っておられ、季節毎にくださるお方なのです。私たちが魂の収穫の為に祈り求めている事もご存知です。そして大収穫のために恵みの大雨を賜るのです。 ♪♪ 雨を降り注ぎ 恵み給うと 神は愛をもて 誓い給えり 雨を降り注ぎ 強き音もて 眠る民の目を 覚まし給えや 雨を降り注ぎ 神の言葉の 変わりなきことを 示し給えや 雨を降り注ぎ ひとりびとりに 奇しき汝が業を 見させ給えや 夕立のごと 天つ恵みを イエスよ今ここに 注ぎ給えや♪♪  この賛美のように、私たちの魂の渇きに、祈ってる家庭の愛の渇きに、神さまの恵とみ業を渇望する者たちに、必ず主は恵みの大雨を降らせてくださいます。  長く待ち望み、祈り続て、求め続けた者こそその大雨の恵みを享受できるのです。

最近増えている預言カフェの問題店

イメージ
コーヒーを注文する際に「預言を受けたい」と申し出れば、「預言」を聞くことができる預言カフェが、東京に二軒、武蔵野市に一軒、足利に一軒あります。  宗教法人の飲食店として営業しています。 預言カフェ来店ガイドによれば「預言は、唯一まことの神、主イエス・キリストからの愛のことばです。 私たちを造られた神は、一人ひとりのことをとても愛していて、 そのことを伝えたいのです。 主イエスは、励まし、勇気、助け、希望、進む力、生きる喜びを与え、日々を私たちとともに歩みたいと願っています。 預言を通して、あなたも神の愛と思いを受け取ってみませんか?」とされています。  ウイリアム・ウッド著『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント』でウッド氏は、「このカフェを運営するアライズ東京キリスト教会の日曜礼拝は毎週ネットで配信されており、誰でも簡単に視聴できる。そこには多くの伝統的な礼拝を構成する要素、「讃美」「祈り」そして「聖書朗読」と「説教」がある。しかし、「イエスの十字架による救い」「贖い」「罪のゆるし」「贖罪」といった通常のキリスト教会であれば説教や信仰告白の中心的内容を、ほとんど見出すことができない」と述べてあます。 また、「この教会のホームページには次のような「教会のビジョン」が掲げられている。「五役者の働きにより、人が神に出会い、キリストに似た者と変えられるための宣教と御力の現れを実践するプロテスタント教会」。「五役者」とは、「(キリストが)ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師としてお与えになりました」(エフェソ4:11)という新約聖書のことばに由来するが、これはこの教会の「預言者」養成の聖書的根拠でもある。  この「五役者」の働き・宣教の目標「キリストに似た者に変えられる」、このことに異議はない。しかし、伝統的な教会はその前提としてキリストの十字架による救い、罪のゆるし、贖罪を、福音の不可欠の内容として語ってきた。それがこの教会からは聞こえてこないのだ」と。同感てす。  預言カフェと検索すると、栃ナビで「預言カフェ足利-足利市のカフェ、喫茶店、占い、鑑定」として出てきます。栃ナビは栃木の好きを繋げる口コミサイトです。こういうサイトの喫茶店、占い、鑑定のジャンルに含まれているという事は預言が限りなく、占いや鑑定に近いものとして人々に捉えられている

本当の主の僕は孤独な存在です

イメージ
  大預言者と言われたエリヤは450人のバアルの預言者とカルメル山頂で対決し神の火を降らせて主が神である事を民に示しましたが、イゼベルに脅されて逃亡し主に祈った時何度も「私一人だけが残って主に熱心に仕えました」と申し上げています。預言者エレミヤは神の言葉を限りなく民に伝えたのですが、指導者はエレミヤを馬鹿にし、井戸に入れられたり、投獄されました。それどころか、妻をめとらず、息子や娘を得ない、弔いの家に入らず、主演の家にも入るなと主に命じられ、孤独を求められたのです。使徒パウロは、想像を絶する宣教の働きをしましたが、神の民から妬まれ、投獄されているのに快く思わない人たちに党派心を持って伝道されました。主・イエスさまでさえ、真理を語っても多くの弟子たちが去っていき、選んだ弟子たちにも理解してもらえないことがあり、孤独な時を少なからずもたれたのです。  今の時代も本物の神の僕は孤独です。例えば、人に喜ばれる預言をする人は多くいますが、主が与えられた厳しい預言を割引かず語る人は嫌われます。アメリカで預言者の牧師が神さまから示されたメッセージを語ると翌週には誰も信徒がいなくなったという話を聞きました。神さまからの預言も、預言を認めないような教会や教役者にダイレクトに語ったのでは無視されてしまうでしょう。聖霊さまの知恵が与えられることが必要ですが、それにしてもそのような務めをする神僕は孤独なのです。  主・イエスさまはよく朝早く起きて人里離れた所や山に登られて天の父なる神様に祈られていました。父なる神様から天の慰めを得ておられたのです。現代の孤独な神の僕も天の父なる神様と主・イエスさまに祈る時全てを理解していただき、慰めを受けることができるのです。そしてその報いは天において受けるのです。  本物の主の僕は孤独である事を覚えてその僕のために祈って取りなしをしていきましょう。  そのような主の僕に召された人は人の評価や人の言葉を恐れず、主が指示された事を行い、主から受けたメッセージを伝えていきましょう すべてのリアクション: 22 22

祈るが勝ち

イメージ
   「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた」(歴代誌 第一 4章10節)。  ヤベツの祈りは実に自分のことしか求めていない祈りです。「わたしを祝福してください。わたしの地境を広げてください。神のみてを私の上に置いてください。災いから私を遠ざけてください。私が苦しまないようにしてください」と。  しかし、彼の願いは神に聞き入れられたのです。歴代史に載ってる系図の中でヤベツの祈りだけが取り上げられています。ヤベツ以外の系図に載っている人たちも誰もが少なからず祈ったはずですが、難産で生まれおそらく弱く育ったヤベツの祈りは神が耳を傾けられるほど真剣で必死的だったのでしょう。とにかく祈るが勝ちなのです。  天の父なる神さまは神の子供たちが喜びに溢れるさまを見て喜ばれるお方である事を覚えていましょう。  求めないより熱心に求める人を天の父なる神さまは心に留めてくださるのですから、熱心に祈り求める人になりましょう。

私達が求め願う事全てを遥かに超えて豊かに叶えることのできるキリスト

イメージ
  使徒パウロはその生涯をかけて、福音を伝え、弟子を作り、教え、教会を立てあげました。しかも教会の兄弟姉妹たちに負担をかけないように自ら働いて神の子供たちを育てていつたのです。  パウロの願いはキリスト信者の魂の目が開かれて、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを知ることがでくきるようになることでした。そしてパウロを召された主がそれを成し遂げる力をパウロの内に持って働いておられることを困難と問題の山積する中でもパウロは信じていました。  「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と、告白しています。  私たちも願いや求めが有ればある程、更に勝った力と勢いと富を持って豊かに叶えられる主を覚えましょう。  人の思いも想像も超えた偉大なみ力を私たちの人生に現して頂けるよう期待して祈っていきましょう。

自分の教会で救われた人を信仰の勝利者として育てましょう

イメージ
 昨年のクリスマスの時期ある教会のコンサートに出席しました。すると他教会の方々が多く参席しておられました。その教会の牧師に誘われて来たのです。なんとかして人を集めたいという願いは解りますが、それは極端であり問題視されている教会の形成方法と同じで警戒され非難されている方法です。  健全な教会の成長のあり方は教会員の家族が増えることによる自然成長とその教会の伝道によりキリスト信者になった人が増えていくものです。他の教会で救われたキリスト信者が入ってくると、いつか問題が生じるのです。何故なら救われた時は魂は新生児のようなものでその教会の兄弟姉妹や牧師に養われて成長していくのです。そこで養われるみ言葉やミルクの真理を食べて成長していくので、不信者の世界でも三子の魂百までと言われるようになかなか一度向けられた方向ややり方は変えられないものなのです。  ですからやはり原則は、自分たちで伝道し救いに導いた魂をミルクの真理を与えて成長させキリストの花嫁として訓練し整えていかなければならないのです。牧師が引退して後継者がいなくなったり、キリスト信者の居所が変わって他教会に転籍する場合はそのキリスト信者に対する配慮を時間をかけてしっかり丁寧に行わなくてはなりません。そうしないと後に問題が引き起こされるのです。私たちは里親を20年間してきたので引き取ってお世話した子が我が家の子になるまでにどれだけ大変な事があったのかを多く体験して知っています。  あどないいるえ伝道協会は宣教団体でマクロ的な宣教のために働き人たちを結集して行なっていく存在ですから広くキリストの弟子を作り、真理を教えて参りますが、あどないいるえクリスチャンセンター蔵の街チャペルは栃木市にある地域の教会です。今まではマクロ的な視点をより重視して来ましたが、今年からは地域教会としてもその形成を祈り始めました。今は私たちと息子家族しかいませんが今年の年末には10人の礼拝ができますようにと。  遣わされ、置かれた場所の教会として、主に導かれた伝道をし救われた魂を成長させていく教会になりましょう。  信徒の祈りが牧師の祈り方に似ている礼拝に出席した事が何回もありましたが、そんな自然で理想的な、信仰の家族が増えていく教会を形成していきましょう。

神の大きな業が起こる時、神は聖さを神の民に求められるます

イメージ
 初代教会に聖霊が注がれ、男性だけで5000人もの人が救われ、生まれつきの足の不自由な人が癒され、使徒たちによってみ言葉に伴うしるしと不思議な業と奇跡が行われました。ペテロの影にかかるだけでも病気が癒やされ、汚れた霊が出て行きました。  教会の兄弟姉妹の中で財産を持っていた人はそれを売り、主に献げていたので貧しい人はなかったのです。そんな時、アナニヤとサツピラは売った土地代金をごまかし、神を欺いて、その一部を使徒たちの所に土地代金として持ってきました。主はその欺きを示され、アナニヤもサツピラも主の前に打たれ息絶えたのです。  これから週末の大リバイバルが日本にも起こります。そして、難病が癒やされ、悪霊が追い出され、死人が甦るでしよう。神の偉大な力強い業が多く起こるでしょう。その時神は神の民に聖さも求められるのです。神は聖であるから神の民も聖でなければならないのです。今のうちから私たちは、言葉と思いと行動において偽りを捨て、誠実かつ正直な生き方をして参りましょう。  神は侮られる方ではなく、私たちの心の図りごと全てを知っておられる事を覚えましょう。  主と同じ思い、同じ願いを持って日々主と共に生活して参りましょう。

神を畏れその定めを守る人に育てることが親の最大の仕事です

イメージ
   日本の少子化は憂いる状況ですが、その少ない子たちが平気で誰彼の区別なくsexを求め、胎児を殺し、占いに走り、隙あらば相手を陥れ、警察に捕まらなければ何でもする人になるならなんと嘆かわしい悲しい事でしょうか。  真の神を知らず、全能の主を畏れず、生涯の全てを裁かれる事を知らないのは親の責任であるのですが、その親に主なる神を伝えない私たちキリスト信者の責任でもあります。なので私たち自身から自分の子供たちに、徹底して神を畏れること、神の定めを守る生き方を幼い時から教えていかなければならないのです。神を畏れ神の定めを守る人の生涯がどれほど祝福に富んだものであるかを、不信者に見せなければならないのです。  どんな良い大学に行けなくても、3流企業にしか就職できなくても、教養がないと言われても、空気読めないと馬鹿にされても、人付き合いが悪いと評判にされても、神を畏れ神の定めをひたすら守って生きているなら神の恵みはその人を追ってくるのです。どんな金持ちになるより、幾つ博士号を得るより、神を畏れその定めを守って生きる方が素晴らしいのです。  キリスト信者の兄弟姉妹の皆さま、私たちの子どもを神がよしとされる人に育て上げましょう。  私たちの孫は主・イエスさまの十字架の紙芝居を見て泣いていますが、そのように神を愛し、神の愛に感動して神に応えていく人物に育てていきましょう。

主のように大きなビジョンを持ちましょう。

イメージ
 主のミニストリーは一人一人に対するものでした。癒され、悪霊を追い出し、癩病をきよめ、死人を甦らせて慰めを与え、福音を語られ、信仰を持たせられ、教理を教え、弟子とされました。  これに対して主・イエスのビジョンは、弟子たちを全世界に遣わし、全ての造られた人に福音を述べ伝えることでした。全ての国民を弟子とし、パプテスマを授け、主が教えられたことを教えることでした。聖霊の力を受けた弟子たちが地の果てにまで主の証人となることです。主の名により罪の赦しを得させる悔い改めを全ての国民に宣べ伝えることでした。  主の弟子たちは出て行って至る所で福音を宣べ伝え私たちの日本にも福音がやってきました。私たちは生ける神の言葉と聖霊の力によって、キリストから賜った力と権威を持って、家族や友人に生活の中で証していきましょう。主に許されたら地の果てにまで出て行って、福音を伝え、悪魔に呪縛されている人々を解放し、病人を癒やし、み言葉に伴うしるしと奇跡をもって福音を確かなものとしましょう。  主の恵みの日救いの時は更に短くなって主の携挙の時が近づいていますから、時間を無駄にすることなく時があってもなくても福音を伝えていきましょう。  主の思いを思いとし、復活の力と聖霊の力と信仰に満たされて、主が導かれるままに、主の視点を頂いて、主が愛されている魂を悪魔から奪い返していきましょう。

イエスさまのご用聞きになりましょう

イメージ
     主・イエスさまがエルサレムに入られる時、 「村に入るとすぐ、一頭のろばと一緒に、子ろばがつないであるのに気づくでしょう。子ろばをほどいて、連れて来なさい。  もし誰かに、何をしているのかと聞かれたら、『主が必要なのです』とだけ答えなさい」 と言われました。  主は様々な御心を行うために、いろいろな必要があるのです。主には2億もの天使がいるので彼らを遣わして行わせたら良いと考える方もいらっしゃるかと思います。しかし、天使は言わば感性の無いロボットのそうな存在で、主・イエスさまの十字架の愛を感じそれをモチベーションとして心から熱く主にお使えするという事ができない存在なのです。  故に主は多くの場合人を用いられるのです。子ロバのようにかろうじて主をお乗せしてお運びだけしかできないような存在を求められるのです。強すぎて主を振り落として行ってしまうような馬は必要とはされないのです。猪のように猪突猛進する者も不要です。十分な力なくても一歩一歩主の向かおうとされる所に主の言われるままに確実に進んでいく存在こそ主は必要とされるのです。  私は10歳の時に大人の夏季カンファレンスで十字架のメッセージで罪が示され主を信じ受け入れました。説教後「主は命を与えませ理、主は血潮を流しませり、我は何をなして主に報いし」という賛美歌を歌ったら、主の愛に圧倒され涙で溢れながら「イエスさま、私のために血を流し死んでくださってありがとうございます。私は子供ですがこれから主のために生きていきますからどうか何にでも御用のためにお使いください」と祈りました。子供の私は主のご用聞きになるつもりで献身の祈りを献げたのです。  主は弱くても素直な人、賢くなくても謙遜な人を、主のご用聞きのために求めておられる事を覚えましょう。  主は遍く全世界を見渡して、主と全く同じ心、同じ思いを持つ人を探しその人を通して主のみ力を現してくださるのですから私たちには並外れた能力も経験も必要ない事を感謝しましょう。  

自分の願いや計画を行なうのでなく主の意思に従うことが真の主の僕の生き方です

イメージ
  主・イエス様はゲッセマネの園で血の汗を流して祈られました。できたらこの盃を受けなくても良いようにと、つまり全人類の罪を背負い、そのための罪の贖いとして生贄として呪いの十字架の上で死ぬことが避けられたらそのようにお願いします、と祈られたのです。  しかし、主は自分の願いや意志ではなく御父のご意志に従われ、御心の通り行なってください従いますと父なる神様に祈られました。これは全ての主の僕の最も大切な生き方を示しています。どんなに主の御心と思う計画や仕事であっても、自分の願いやその意思を捨て自分に死んで主の御心とご意思に従う道こそ主の祝福と幸を得る道なのです。  そのような道を主に示され、たとえそれがどんなに好きでない道否嫌いな道でも、やりたい仕事でなくても、どんなに気が向かなくても主の僕がそれに従い受け入れる力を与えるために主・イエスさまは血の汗を流して祈られたのです。これは時に主の僕にとって滝から飛び降りるくらいの大きな事である場合があります。  その従順の決断ができるかできないかでその主の僕は主がくださるテストに合格するか否かが決まるのです。誰も主・イエスさまが通られた道のように険しい道を通らせられることはありません。なので安心して主の受けられた苦しみを覚えながら主のみ足跡について行きましょう。  「生きて伝道、死んだら天国、どこに居てもイエス様」と良く言われていた師がいましたが、どんな状態でも主の願いと意思に従う者とされていきましょう。  天の御父の御心を主・イエスがなされ、その業を聖霊なる神がわたしたちを通して前進される時、それに全く従うなら神の栄光が必ず現れる筈ですから全幅の信頼をしていきましょう。