「渇きを潤すいのちの水」

 



私は35年前に信州の黒姫山に登りました。水を持って行きましたが、登頂前に飲み切ってしまい、後半はそれは喉が焼けるように渇きひりひりにになり、下山後かき氷を3杯も食べました。


我が家に来た里子達は愛情に飢え渇いていました。中学三年生になるのに毎晩おねしょをしたり、お菓子を一杯食べ気持ち悪くなりトイレで吐いても食べ続ける子もいました。毎日万引きしてくる子もいました。彼らは皆自分を受け入れて貰いたい、認めて愛して欲しかつたのです。


 主・イエスは十字架の上で「渇く」と言われました。それは最後の晩餐以降暴徒に捕らえられ夜通しの裁判を受け十字架の苦しみの時まで一切水分を取られなかった肉体的な渇きと、やがて人が罪赦されないまま死んで黄泉・ゲヘナに行った時火と硫黄の燃える所で水も無く苦しむ魂の渇きも味わわれたのです。さらに永遠に続く父なる神さまの愛が、全ての人の罪を負われたが故に断たれた霊の渇きを訴えられたのです。

 

 エゼキエルは神の神殿のから流れ出た水が泳げる程の川となり、その流れ行く全ての所に命をもたらし、全てのものを活かしていくのを見ました。主・イエスはヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女に「この井戸の水を飲む者はまた渇きます。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇く事がなく、それを飲む人の内で泉となり、永遠のいのちの水が湧き出るようになる」と言われ、私たちは皆魂にいのちの水の泉を与えられ持っているのです。



 私たちの魂にあるいのちの泉は、一人一人水量や勢いが異なります。水源はいのちの君であるイエス・キリストで無尽蔵にあります。しかし、その水を流しだすパイプはどれだけ主に魂を広げて開放するか、自我の中にある大きな岩や障害物が取り除かれているかによって人それぞれ、まちまちなのです。障害物や岩が取り除かれ水門が最大限に開かれているなら生ける水の勢いもダムからの巨大な放水のように多くの人々の心に流れ出て届く事でしょう。


 自我の障害物や岩を取り除いて主の祝福の流れをより大きく受けて流していく者になりましょう。

 いのちの水を与えるために主が十字架の上で渇わかれたことを覚えて感謝しましょう。









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