レプタ二つ

  年金は給料でないから収入でなく、自分で投資して得たものも収入でないから十一献金の対象ではないとして献金をしない兄弟がいました。献金は神さまと自分との関係で、自分自身の献身を表すものです。一般的な十一献金の理解も彼のように捉えることはできます。しかし、それで良いとは言えないと思います。

 ユダの王ヒゼキヤは人々に主に仕える祭司たちやレビ人が務めに専念できるために人々に献げるよう命じると、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、すべての野の収穫の初物やすべてのものの十分の一を豊かに持って来て、さらに牛や羊の十分の一と、彼らの神、主に聖別した聖なるささげ物の十分の一を携えて来て、あちらこちらに山と積んだのです。これは民の自由な意思による献身の現れとしての献げものでした。
 主・イエスさまは貧しい寡婦が献金場に入れたレプタ二つを見て彼女は自分の生活費全部を献げたと言われました。旧約聖書の時代に飢饉があった時、子と一緒に最後のパンを作って死ぬのを待とうとしている寡婦に預言者エリヤは先ず私にパンをくださいと何と情け知らずと思われる頼みをしました。しかし、寡婦はエリヤの言葉を神の言葉と受け止め最後の粉でパンを焼いて預言者に与えました。これは寡婦親子の糧の全てだったのです。神はエリヤが語った通りかめの粉は尽きず、壺の油は雨が降るまで無くならないようにされたのです。
 ケチな人にはケチな神さまとして対応されるけれど、全てを献げる人には主もまた惜しみなく押し入れ譲り入れ溢れるばかりに与えられるお方であることを体験しましょう。
 強いられてではなく、溢れる感謝の気持ちで心から主に献げる者になりましょう。




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